東大医学部学生・教職員・広く一般に開かれた医学序論連続講座
医の原点 シリーズY


10/31〜12/12 :毎週火曜日午後3時 〜 4時30分
東京大学医学部 教育研究棟14階 鉄門記念講堂
(問い合わせ先:東京大学医学部教務係 Tel 03−5841−3308)

医学、医療の原点につき、この分野の著名な講師を招いて講義を聞き、医学とは何か、医療とは何か、医師になることはどういうことか、患者と医師の関係はどうあるべきかなどの根元的な問いに対して、自らの体験に根ざして考える機会を得る。その中で自らの将来の医師像を描き、医師あるいは研究者になることの動機を高めることを目標とする。


第1回 10月31日  医療事故と患者の人権
講師:藤 田 康 幸  特定非営利活動法人 患者のための医療ネット代表理事

医療事故が頻発する状況が続いている。医療事故を防止するための一定の努力が行われているが、目立った減少には結びついていないようみえる。医療事故の予防のために何か不十分な点があるのではないだろか。また、発生した医療事故による被害は多面的で深刻であり、適正な被害救済が求められているとともに、医療機関・医療従事者側の対応のあり方が問われている。医療において患者の人権という言葉が語られているが、そもそも人権とは何か、医療において、なぜ患者の人権が尊重されなければならないのかを考えたい。 そして、医療事故について、事前の防止と事後の対応という2つの課題において、患者の人権の尊重がキーコンセプトになることを考えたい。また、言わば非日常的な出来事としての医療事故と日常の診療には、実は共通する側面があること、日常診療においても患者の人権を尊重することの必要性についても考えたい。


第2回 11月 7日  国民医療と医療の現場
講師:後藤田 圭 博  医療法人社団 東山会 調布東山病院理事長

1964年に大学医局に入局し、希望に燃えて外科医を目指して修練に励んでいた。大学での医療の現実を知るにつれ、日本の医師の卒後研修制度や学会制度に対して疑問を持つようになった。大学院を終え助手時代に、研究室が大学紛争で学生に封鎖された。大学医局にいるだけでは研究者になるのはもとより、一人前の臨床医になることはできないのではないかという疑問が生じてきた。機動隊と学生の真正面からの対決という形で幕を閉じた大学紛争は、多大なエネルギーを使い、虚無と喪失、そして荒廃し、10年以上にわたり学問、研究や教育の沈滞の時代になった。その中、自分たちで理想に近い病院を作って医療を実現しようと「新都市医療研究会」という研究会を作り、大学医局を出て関東周辺に100〜200床規模の病院を数箇所に実現した。夫々は経営的には独立しながらも、様々な情報交換や人員の交流を通じて地域医療をともに実践してきた。創業時の問題、軌道に乗ってからのマネジメントの問題、医療制度と
の関係等、病院経営の苦楽を味わってきた。今回私は組織を運営し向上を図っていく為に、日頃考えていることを述べたい。「医の原点」というよりむしろ「医の盲点」と言えるかもしれない。最近独立法人化した東大病院でも病院組織の効率的な運営と医の安全、安心は至上命題であり、避けては通れない。その意味では「医の盲点」から真の意味の「医の原点」になりつつあるとも言える。その中にある様々な問題は既に30数年前の東大紛争の時に色々な人達から指摘されていたことである。そのときに改革をしなかったために失われた30年後に政府の財政問題による外部の力でこれらの諸問題に立ち向かわなければならなくなったことには残念に思う。「全ての事柄には時がある」と言われるが、これほど優秀な人達が集まり最先端の教育・研究・臨床を担うことが自他共に期待されている組織の中で、外部の力が及ぶまで自分達の力で経営マネジメント、イノベーションが行われてこなかったことは驚きであり、システムの破綻を来たしていたと思う。最近財政問題による外圧からとは言え、独立行政法人となり、組織運営の改革が行われ始めたことは期待をしていいと思う。医療の第一線ではまず病院組織の運営、維持、発展を図らなければ、その病院は存在を許されなくなる。組織の強さは「募集力」「教育力」「定着力」の3つの力が必要であると言われている。この大きな課題に対しては、「正しい答えを見つける力より、正しい問いを見出す力が求められている。(ドラッカー)」の言葉がピッタリとする。


第3回 11月14日  『人が生きることの支援』 〜訪問看護の実践から〜
講師:宮 崎 和加子  特定非営利活動法人 健和会訪問看護ステーション統括部長

21世紀前半の国民の大きな課題は、@がん、A認知症、B寝たきり、C孤独であろう。私たち医療人は、単に体が壊れた部分を直す存在としてだけではなく、障害を持った生き方、余命いくばくもないことを意識しつつ生きること、「個」を大事にしつつ「孤独」ではない生き方をいっしょに考え、それを傍で支える使命があるのではないだろうか。私は、1970年代半ばから訪問看護という仕事を通して、在宅で療養・生活する人にたくさん出会ってきた。「がんになってよかった」といって家で亡くなっていった50歳代の方、神経難病で人工呼吸器を装着した状態で10年も家で暮らし続けた人、認知症になってグループホームという新たな"自宅ではない在宅"で共同生活をしはじめて生き生きと生き始めた人・・・。看護師として、医師やケースワーカー、リハビリの専門家、ヘルパーなど、他職種といっしょになって支えきたつもりだが、実は私たちのほうが学び、自分の人生観も変ったような気がする。どんな状態になっても、『人が生きる』こととはどういうことなのかをいっしょに考えながら向き合っていきたい。


第4回 11月21日  現場から学ぶ:川崎病発見の経緯
講師:川 崎 富 作  特定非営利活動法人 日本川崎病研究センター所長

1961年1月、小児科臨床10年のキャリアーを経て受持った4歳3ヶ月の男児は今まで経験したことのないユニークな臨床像であったので診断することができなかった。医局の症例検討会に提示して意見を求めたが、納得できる意見は得られなかった。結局本例は退院時診断を"診断不明"とせざるを得なかった。1年後の1962年2月、敗血症の疑いで紹介された患児を診た途端、1年前の記憶が蘇り、入院観察したところ、ほぼ同様の症状と経過を示した。この第2例目を経験するに及んで、どの教科書にも記載されてないユニークな臨床像を呈する症例が確実に2例存在したという実感を得た。その後、10月までに同じカテゴリーに入る症例を5例経験したので、計7例を10月の千葉地方会に報告したが反応はなかった。その後も年々同じカテゴリーの症例を経験し、6年間に50例に達したので、その臨床像の詳細をアレルギー16:178-222,1967に発表したところ、全国的な反響があり別刷が速やかに残り少なくなった。1967年1月から日本小児科学会東京地方会で本症がStevens-Johnson症候群かどうかで論争が始まり、一時は独自性が否定されたが、その後日本各地から症例報告が相次ぎ、1970年に厚生省の研究班が発足し、第一回の全国調査で、突然死例の存在が明らかとなり、剖検例はすべて両側冠動脈瘤+血栓閉塞を認め病理組織学的には乳児結節性動脈周囲炎と一致し、疾病概念の180度の転換を余儀なくされた。(特定非営利活動法人日本川崎病研究センター理事長 川崎富作)


第5回 11月28日  医学進歩のマイルストーン Ca革命とDystrophin革命とを生きて
講師:小 澤 B二郎  国立精神・神経センター神経研究所名誉所長

私が大学を出てから、もう既に45年が経った。この間に医学は著しく姿を変えた。こうした変化は、教科書で見ると徐々に起った様に見えるが、個々の事実をズームして見ると、多くの場合には段階的に進歩して来た事が分かる。その時、研究者達は次の様にしてステップを昇って来た。始めに極少数の研究者がある発見をして、未知の荒野への扉を開く。開いた戸口から一群の研究者達が荒野に出て行き、夫々が得意とする方法を用いて道をつける。始めは細い道だが、多くの人々の手によって、幾つかの道は立派に整えられ、舗装され、高速道路となる。そして描かれたロードマップは教科書の一ページとなる。新しい分野の開拓は、研究者には輝かしい未来に突き進む喜びであり、禁断の木の実であるとさえ云える。私は研究者としての一生のうちに、Caによる制御過程と筋ジストロフィーの研究に於いて、革命とも云える非常に大きな変革に二度も際会し、しかも夫々のクリテイカルな時点で働く機会に恵まれた。両方の革命の果実は常に二つの側面を持っていた。一方では正常細胞生物学の重要な要素であり、他方では疾患の理解を深め、治療法の開発に大きな足場であった。此処では、医学の進歩の将来の担い手である優れた素質を持つ若人達に、私の経験を語りたい。後輩は先輩を乗り越えて、更に遠くを目指して進まなければならないからだ。


第6回 12月 5日  救急医療は「医」の原点 ― 「東京ER」の現場から ―
講師:濱 邊 祐 一  東京都立墨東病院救命救急センター部長

「救急医療は医の原点」とは、久しく唱えられていることである。しかし、いったいどれほどの人が、この言葉の意味を正しく理解しているのだろうか。救急医療というサービスを提供する医者や医療機関や行政然り、そのサービスを享受するべき住民や患者もまた然り。ちょっとした切り傷や、夜間の子供の熱発から、急性心筋梗塞、外傷性大動脈破裂、心肺停止といった瀕死の重症患者に至るまで、さまざまな救急患者に対応するべく設置されている「東京ER」、その東の一角の下町を担っている我が墨東病院は、年間に8000台以上の救急車を受け入れ、5万人の救急患者を収容する。そこでは、「救急医療は医の原点」などというお題目を反芻している暇など見当たらず、医者たちは、ただただ目の前に繰り広げられる現実に翻弄されているばかりである。「医」とは何ぞやという根元的な問への、そんな現場からの愚考を提示しよう。


第7回 12月12日  世界の結核対策
講師:島 尾 忠 男  財団法人 結核予防会顧問、財団法人 エイズ予防財団理事長

先進国と途上国との間には、感染症に関してはその蔓延状況と対策の実施状況にかなりの格差がみられ、先進国では順調に対策が進められ、減りつつある疾病が、途上国では強く蔓延し,未だに多くの命が失われている例が少なくない。対策に見られる先進国と途上国との格差をなくし、途上国でも進んだ医学の恩恵を受けられるようにすることは人類の夢であるが、その実現を目標とし、着々とその方向に進みつつあるのが世界の結核対策である。DOTS戦略と呼ばれる新しい結核対策は、@結核対策を重点施策とすることを政府が公約、A咳や痰のあるものの痰の塗抹検査による患者の発見、B服薬を見守りながら標準化された処方で行う化学療法、C抗結核薬を購入し、全国に配布する体制の整備、D患者を登録し、報告する様式を整備し、治療成績をコホート調査で評価する という5項目で構成され、強力に推進され、新たに発見された塗抹陽性肺結核の85%を治し、発生する患者の70%を発見するという目標に近づきつつある。しかも、その発展の過程には日本が大きく貢献している。途上国と先進国との間に見られる感染症対策についての格差を解消する試みの先陣を切って、全世界で結核を制圧するために展開されている新しい結核対策、DOTS戦略について紹介する。